report活動レポート

代表 田中 れいかインタビュー

生い立ち関係なく、誰でも好きなじぶんになれる

■プロフィール

  • 田中 れいか(タナカ レイカ/1995年12月4日/東京都出身)
  • 7歳から18歳までの約10年を児童養護施設で過ごす
  • 施設退所後、保育の短期大学へ進学
  • 大学卒業、夢だったモデルの活動を本格的に開始
  • モデル業のかたわら自身の経験を活かしNPO法人の広報も担当
  • 2018年にはミスユニバースに挑戦し、茨城県大会準グランプリ・特別賞を受賞
  • 現在、子どもたちの夢をサポートする「一般社団法人ゆめさぽ」の代表理事を務める

 

不安定だった幼少期

幼い頃は、両親と兄、姉の5人で暮らしていました。
同じ団地で暮らす同年代の友だちと遊ぶ、明るくて元気な子どもでしたね。
しかし、ある時から両親の激しい喧嘩は日常茶飯事になって、私が小学1年生のときに母が家を出て行ってしまったんです。

父はそれをきっかけに、兄や姉に強くあたるようになりました。あまりお父さんのことを悪く言いたくないので詳細な背景は伏せますが、ある日の夜、姉は私を連れて家を出たんです。
そしてパジャマ姿のまま姉と一緒に歩き、姉はじぶんの判断で交番へ向かいました。
交番へ着いた後のことはよく覚えていませんが、姉もまだ小学生だったので、私たちは足立区の児童相談所に一時保護されました。

その後も家には帰ることなく、空きのあった世田谷区の児童養護施設で暮らすことになりました。

はがゆさと共に成長した

施設での暮らしは規則正しいものでした。
決まったルーティンがあって、朝起きて学校に行き、宿題をやってから友だちと遊ぶ、5時の門限に合わせて帰宅し、施設での時間を過ごす、そんな感じでした。季節行事やイベントなどもあって、生活はとても楽しかったです。

小学生から高校生までの子どもたちが一緒に生活しているので、お兄さんやお姉さんたちの影響でいろんなことに興味を持ちました。
その中でも音楽が好きになり、小学校5年生からピアノを習いました。高校3年生までずっと続けるくらい好きでしたね。

でも辛いこともあって。
入所してから毎年「両親とどうなりたい?」と聞かれる機会があるんです。
私は母のもとに帰りたかったけれど、濁されてしまうばかりで光も見えませんでした。
中学生になると、「家に帰れないんだ」と悟りました。
帰る場所がない寂しさやもどかしさは思春期だった私にとってすごく辛いものでした。

中学生はまわりの子たちも同様に、はがゆい思春期。
入学当初は小学校からの友だちと変わらず仲良く過ごしていたのですが、部活内のできごとが原因で学校に行くのが億劫になってしまいました。
原因は、周囲からの嫉妬でした。バレー部に所属していたのですが、1年からレギュラーで、よく思わない子たちがいたんです。
その他にもいろいろ言われて、仲間外れにされました。

それをきっかけに学校にあまり行けなくなったんですが、施設でも時期毎に職員は変わるし、安定しない環境にとてもモヤモヤしていた時期でした。

高校には進学しようと決めていたので、しっかり勉強していました。はじめはE判定だった志望校に無事合格。
アルバイトもしながら純粋に高校生活を楽しんでいました。

はじめての“巣立ち”に感じた孤独

児童養護施設は、18歳になったら施設を出る決まりがあります。
まわりよりも早く大人にならなければいけない状況に焦りを感じていました。
ピアノを習っていたこと、子どもが好きだったことから、保育士の道を考えていましたが不安もあって。
誰かに背中を押してもらいたくて、無料開放していた大学生が運営する塾に行きました。
そこで覚悟を決め、公募推薦で保育の短期大学に合格しました。

そして、施設を巣立つ日。入所した日に担当してくれた先生が会いにきてくれたんです。
その先生とアドレスを交換し、先生からメールが来ていたので返信をしました。
わたしは覚えていなかったのですが、その返信が「ここからがスタートだ。これから自分一人でががんばらなきゃいけないんだ。」といったびっくりするような長文だったみたいで(笑)その先生は「かなり心配だった」と言っていました。
相当抱え込み過ぎていたんじゃないかと思います。

3月末には一人暮らしを開始しました。これまでの暮らしと一変した静かな部屋は、とてつもなく寂しかったです。
一人暮らしをはじめてから1か月位は布団に入ると泣いていました。それでも、徐々に生活に慣れようと頑張っていましたね。

大学生活はとにかく忙しかったです。友だちと遊びに行ったり、バイトをしたり。
生計を立てなければいけなかったので、バイトを2つしながら大学に通っていました。

2年制なので授業もキツキツで、学校へ通いながらモデルを目指していたこともあって、単位が足らず留年してしまいました。その後なんとか卒業し、保育士免許も取得できました。

就職を目の前にしたとき、本当に“自分のやりたかったこと”を振り返ってみたんです。

保育士もいいけど、小さい頃に憧れたモデルの仕事にも挑戦したいと思いました。
モデルをはじめるなら、できるだけ若いうちが良いと思ったので、エキストラやオーディションを受けました。
しかし、大手の事務所を受けても「まずは養成所に入ってから」となる場合がほとんどでした。
養成所の学費は高いので、払えなくて。「夢はお金がなければ叶えられないのか」と生い立ちを悔やむようにもなりました。
もともと自己肯定感も低かったですし、容姿に自信があったわけでもなかったので、自暴自棄でしたね。

そんな時に、お母さんからコーチングのコーチを紹介されました。

本当の私を見つけてくれたコーチング

コーチングでは、2〜3時間いろんな話を聞いてくれました。
自分のやりたいことを誰かにいう経験も少なかったので新鮮でしたし、気持ちを受け止めながら道筋を立ててくれるのがすごく嬉しかったです。20歳で出会えたのは、すごく運が良かったなと思います。
今でもその考え方を実践しています。

コーチングを受ける中で、私がモデルになりたかった理由が「影響力を持ちたい」という思いからだったと気づきました。
ぼんやりしていた気持ちが明確になったことで、モデル事務所に入れないのなら、違うところから挑戦しようと決意もできたんです。

ちょうど同時期に、施設で一緒に暮らしていた1つ上の子が大学を中退したと聞き、みんなも生い立ちに苦労しているかもと気になるようになりました。
他の子も私と同じように、生い立ちに悩む子がいるのかもしれないと感じ、施設育ちでも夢を叶えられることを、自分が体現したいと思うようになりました。

コーチングのセッションは半年。生い立ちに関係なく、夢を叶えるためにどうしていくか、どうやってモデルになろうかを考えていきました。
行き着いた先はミスコンでした。ミスコンで賞をもらい、博をつければモデルの道も近づくのではないかと思ったんです。
そして、幼少期に別れたお父さんにも、見てもらいたかった。

思い立ってから名刺を作って営業に回りました。交流は広がり、ファッションショーにも出演させてもらいました。
お金をもらう嬉しさよりも、とにかく楽しかったです。

ミスコン準グランプリ。仕事の幅も広がった

2018年にミスユニバースに挑戦。
父に見にきて欲しかったので、父の住む茨城県の大会を選びました。
結果は準グランプリ、特別賞を受賞しました。残念ながら父には見にきてもらえなかったのですが、とても良い経験になったと思います。

それから仕事の幅も広がり、大手の携帯会社から対談インタビューの取材依頼がきました。
生い立ちを話す、はじめての場でしたね。それがきっかけで、NPO法人から講演会の依頼がきて、登壇させてもらいました。
初体験だったので、NPO法人の方に講演内容を一緒に考えてもらって助けていただきました。
その縁から、ミスユニバースの活動をしながらNPOの活動を広げるための講演をし、広報として携わるようになりました。

発信することのやりがいと難しさ

講演会に登壇したての頃は、がむしゃらに進んでいくことに充実感がありました。
しかし、登壇するうちに自分の過去を話し続けるのが辛くなり、心と折り合いがつかなくなってきたんです。
しんどさを抱えながらも発信は続けていましたが、今後も過去をリアルに伝えていくことは自分の負担になると思いました。

そこで「自分の経験を伝える以外の手段で、社会的養護の必要性を訴える方法はないか」と考え、思いついたのが、社会的養護専門 情報サイト「たすけあい」でした。
「たすけあい」では、動画とコラム記事の2本柱で情報発信しています。
児童養護施設での暮らしや社会的養護の必要性などをわかりやすく発信し、少しでも多くの人に親元を離れて暮らす子どもたちの現状を知ってもらいたかったんです。

児童養護施設は、閉鎖的な環境になってしまいがちなことからどうしても ネガティブな印象がありました。
しかし、それは知らないことを怖いと思う人間の習性というか。正しく知ってもらうために発信していくのが私の使命だと思っています。

ミスユニバースやモデルの仕事をやってみて、やりきった感もあったので、次のステップに進もうと思い、「生い立ちに悩む人を応援すること」に本腰を入れることにしました。

自分の思いとリンクした団体との出会い

そんな時に出会ったのが、子どもたちの夢をサポートする一般社団法人の「ゆめさぽ」。
自分の経験を通じて、「夢は叶えられる」と話してきた中で、それを伝える難しさも感じていたことから、私の願いとリンクする活動をしている団体との出会いで嬉しかったですね。
名前から、素敵な団体だなと思いました。ゆめさぽの活動は、主に大学進学のための検定料や、成人式にかかる振袖代などをサポートするような活動でした。
そのために寄付を募ったり、情報発信をしたり。国の支援だけでは補えないところをサポートしている素敵な団体だったんです。

そこで私が代表理事を引き受け、活動を支えながら広めていくことになりました。
進学は夢を叶えるための選択肢。生い立ちからその選択肢も持てないなんて、あってはならないことだと思います。
もちろん進学がすべてではないし、それ以外の夢が見つかればそこに向かって頑張ってほしい。
「ゆめさぽ」はじぶんのちょっと先を歩いているロールモデルが見つかる場所になったら良いなと思っています。
そして現在施設で暮らす子どもたちには、こんな活動をしている団体がいて、こんな風に施設を出た人がいることも知って、「わたしはこうなりたいな」「わたしもこうなれるかな」という「将来探し」ができる場所にしたいと思っています。

社会的養護における活動は、残念ながらすぐに結果は出ません。
一歩ずつ進む彼ら彼女らの今を見届けながら、成長を見守ってもらえればと思っています。
子どもたちの変化や、かけてきた時間以上ものは、きっと見つかるはず。
まずは私たちの仲間になってもらえれば嬉しいです。

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